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iPS誤報の原因はどこにあるか-誤報の背景とそれを繰り返さない為に

※2012年10月25日にWEBRONZAに掲載された記事を転載します。
http://astand.asahi.com/magazine/wrscience/2012102300007.html


 森口尚史氏からのiPS細胞移植という虚偽の話を持ちかけられても記事にするのを見送ったメディアは、「倫理委の承認」「渡された草稿の内容」「身分」「共同研究者」「治療の詳細や実施病院」について確認をしたり、他の専門家に問い合わせたりして確かめて虚偽であることを察知していました。しかし、今回は記事にしなかった毎日新聞日本経済新聞なども、過去には森口氏の身分詐称をそのまま使用して怪しい「研究成果」を記事にしていました。
 これまで発覚しなかっただけで複数のメディアが同じ失敗を何度か繰り返していたのです。記事にする前のチェックも大切ですが、記事を出して終わりではなく、その後、その話題がどうなったのかを追跡調査していたら、繰り返しは防ぐことはできたのではないでしょうか。しかし、どんどん新しい話題が世の中に出てきて、各記者はそれらを追っていくことに忙しくて、いちいちそんな事までやっていられないという事情もあるでしょう。各メディアに共通した問題でもあると思います。

■海外における医学情報の誤報により社会的混乱を引き起こした事例

 同じ様なケースは海外でもあります。センセーショナルな医療情報を記事にして、その後真っ赤な捏造だったことが発覚したものとして有名なものに、英国のアンドリュー・ウェークフィールド氏によるワクチン自閉症原因説があります。この捏造のカラクリの全貌は、ジャーナリストであるブライアン・ディーア氏によって2011年の1月にイギリスの医学雑誌BMJに掲載された記事で明かされました。(この経緯を解説してある資料を最後に参考として紹介しています)
 MMRワクチンが自閉症の原因とされた発端となる1998年2月に出され後に捏造と判明した論文は、被験者がたった12人という少数であり、MMRワクチンと自閉症の関係も推定の域を出ないものでした。最初はあまりメディアには相手にされなかったのですが、その後ウェークフィールド氏がある雑誌に総説を発表してMMRワクチンの安全性に疑問を投げかけたことがメディアに大きく取り上げられて脚光を浴びました。
 まだ検証不足だったウェークフィールド氏の「研究成果」と主張をメディアが盛んに繰り返して報道した結果、MMRワクチンへの不安が広まり、接種率が下がったことで麻疹が再び流行を始めて多くの子ども達が死亡しました。メディアが広めた誤報の犠牲者とも言えるでしょう。

 森口氏に関する一連の誤報は、それを信じてしまったことによる被害者が出ていない様子なのが幸いですが、一歩間違えるといかがわしい再生医療ビジネスに利用されてしまった可能性もあります。気になることとしては、森口氏は彼が作成したiPS細胞を使ったとした6つの治療の内、5つは虚偽であると認めたものの、1件だけは実施したと主張を続けていることです。何処で誰と一緒にやったのかは明かせないとしているので、これも虚偽である可能性は高いのですが、万が一それが本当であれば、その患者の今後が心配です。なので、まだ手放しでは安心できません。
[追記]残り1人の患者については、その後の読売新聞の記事で、”森口氏に改めて聞くと、米ハーバード大近くにあるマサチューセッツ総合病院とは別の病院名を挙げ、そこで行ったと答えたため病院に確認したが、手術記録はなかった。森口氏が主張する執刀医「ジョン」ら該当者も存在しなかった”とのことで、これも虚偽であった可能性が高いと思われます。

 特に医療に関する報道は患者の命に直結するだけに、慎重さが求められます。誤報によって、世間の人々にペテン師を信用させてしまうことで誰かの命が犠牲になるということは、報じてしまった記者にとっても手痛いでしょう。

■科学記事の問題点

<科学のプロセスに関する記者の理解不足>

 科学研究は検証の積み重ねで確かめられていくので、まだその途中である初期の段階で肯定的に報道してしまうのは拙速です。報道するならば、読者が誤解しない様に、まだ検証の途中段階であるという事をしっかりと伝える必要があります。

 森口氏の「研究成果」の多くが正規の論文ではなかったのに、これを一般の論文と同等だと認識してしまったのも、その内容まで確認しなかった事による見落としだろうと思います。やはり、科学のプロセスの理解とそれがどの程度の信頼性がある段階のものか確かめることは、誤報防止の上で大事な役目を果たすのではないかと思います。

<報道内容はその科学的な内容に踏み込まずに、読者が共感しそうな物語に流れがち>

 ある画期的な研究成果を出した科学者を取材する際に、何に焦点が置かれるのかというと、例えばノーベル賞受賞者の記事では研究内容の紹介よりも、その人柄とか生い立ち、小中学校時代の恩師まで探してきて周囲の人達とのエピソードなどの周辺情報の紹介が熱心にされます。読者受けはその方がいいのでしょう。ノーベル賞の様な場合は研究内容の保証があるので、それでも失敗はないのでしょうが、まだ不確かな段階でセンセーショナルな「研究成果」の報道をしてしまい、さらにその研究者を人々のために献身的に研究をする善意の人として持ち上げてしまうと、その人物が実はペテン師だった場合には読者にそういう信頼を与えたことで罪深いものとなります。
 捏造によるワクチン自閉症原因説を発表したウェークフィールド氏についても、子どもを守る味方としてメディアが賞賛していました。そして、捏造が判明したとたんに各メディアは一斉に手のひらを返して彼を糾弾し始めました。しかし、彼を支持していた人達は、医学界と製薬会社の利権絡みの陰謀により陥れられた悲劇の英雄として、その後も彼をさらに熱狂的に支持し、ワクチン拒否が続けられています。

 森口氏の場合も、読売新聞の記事では彼を人の命を救うために尽力しているとして好意的に扱っていました。『「患者さんは死の間際にある人たち。これしかなかった。この移植は確立したばかりの技術だが、患者さんの利益を考え、医者として前に進まなければならないこともある」と細胞移植を決断した心境を語った』等と、森口氏を志の高い「医師」(実際には、森口氏は医師免許を持っていません)として紹介していました。そして虚偽が判明した途端、これもウェークフィールド氏のケースと同様に手のひらを返して彼を糾弾しましたが、この様子はよく似ています。幸い、森口氏の虚偽は稚拙だった為に報道されてから判明するまでの期間が短く、この誤報によって彼の熱狂的な支持者が増えるということはありませんでした。しかし、もし虚偽が巧妙で判明まで時間を要するケースがあれば、ワクチン自閉症原因説の悪い前例を踏襲することになる可能性も十分あります。

<報道後の追跡報告がなく、その説が後に否定されても人々に伝わらない>

 これは、大きな問題点として指摘させて頂きます。例えば、ある「研究成果が学会で発表された」として「マウスの実験で○○が××に効果があると判明」などと報道されることがあっても、その後に人で調べたら全く効果が確認されずに終わった場合など、それが報道されることはめったにありません。ワクチン自閉症説でも、実は捏造が判明する前に、ウェークフィールド氏の実験結果を否定する論文が複数発表されていましたが、それらがメディアに注目されることはありませんでした。「実はハズレでした」と記事に書いても読者にとっては面白味が無いと思われるのか、記者がどんどん新しいネタを追っていくのでそれどころじゃないのか、理由は色々とあるのでしょう。しかし、「○○が××に効果がある」とか「○○が××の原因」という報道によってそう思い込んだ人達は、その情報が否定された後もそれを知らずに、そう思い続けるという不利益を被ります。

 森口氏による“遺伝子を導入せずにiPS細胞を作る方法”についても、他の研究者達からは疑わしいと見られていましたが、その後どの様な評価を受けているかという報道はされませんでした。取材した記者も報道後にその研究内容の信頼性について調べることはしていなかったのでしょう。それが、捏造に気が付かずにその後も森口氏の「研究成果」を繰り返し報道し続けた原因となっていると思えます。

各メディアには報道後の追跡調査を是非やって頂き、定期的に何処かに纏めてその後の展開を報告して頂ければと思います。

■「検証部門」の設置を考えて欲しい

 スクープなどの新しいネタを追うグループの他に、専門の「検証部門」を設けて記事内容の品質保証に努めることはできないでしょうか。
 「検証部門」の設置は、次々と新しい話題を追っていく記者達に代わって情報の追跡調査を行うことで、記者の負担を減らすことができます。また、記事にする前にも、直接取材した記者とその上司の他に「検証部門」の第三者による客観的な検証を入れることで、二重のフィルターをかけることも誤報防止に有効であると考えます。

一般記者を助ける「検証部門」には、専門分野に人脈があり情報精査に慣れた人物を配置しておくと良いと思いますが、それには各分野での専門知識がありながら安定した職の少ない「ポスドク」が活用しやすいと思います。報道各社の方々、いかがでしょうか?

(参考)
・英国サイエンス・メディア・センター(SMC)主催会議報告書 「MMR ワクチン論争」から学ぶ
http://smc-japan.org/wordpress/wp-content/uploads/2011/04/MMR-SMCtrans-v22.pdf 
・予防接種で自閉症になるってホント?
http://d.hatena.ne.jp/warbler/20110111/1294727614 
MMRワクチンと自閉症の捏造論文事件に関する歴史
http://d.hatena.ne.jp/warbler/20110114/1294953646 
・予防接種で自閉症になるという恐怖の拡大に加担したマスコミ側の問題について
http://d.hatena.ne.jp/warbler/20110120/1295526687