ヘンドリック・シェーン事件の経緯
本日、NHKアーカイブスでNHK BSスペシャルの『史上空前の論文捏造』が再放送されました。
論文不正の事例研究として、とても参考になります。
この番組のディレクターである村松秀さんが取材内容をまとめた著書『論文捏造』(中公新書ラクレ)からも引用させて頂き、ヘンドリック・シェーン事件の経緯をまとめました。
<ヘンドリック・シェーン事件の経緯>
1970年8月
ドイツの小さな町に生まれる。
1988年
コンスタンツ大学入学
「シェーンは研究熱心で、いつも夜遅くまで実験をしていた。科学論文をよく読む勉強家だった」
1997年11月 26歳
博士の学位をとる
1998年 27歳ドイツのコンスタンツ大学で博士の学位をとった後、ベル研に契約研究者として勤める。
ベル研は、それまでに11名のノーベル賞を受賞していた名門研究所。
上司のバートラム・バトログ博士は、ベル研の固体物理学研究部門のトップで超伝導研究の大御所。
研究テーマは当時最先端の「超伝導」と「有機化学」と組み合わせた画期的な研究。
研究チームは、バトログの他にクリスチャン・クロック(有機物合成)とシェーンの3名。
シェーンの指導教官だったエルンスト・ブーファが、ベル研の研究員を兼任していた。
クロックの作った純度の高い有機物を使って超伝導の測定をしていた。
(クロックは、超伝導を起こす中核の実験には関与していなかった)
2000年までは、目立った成果はなかった。
シェーンは、勤勉に実験し確実に結果を残す人物としてバトログの信頼を得ていった。
2000年1月 29歳
「ネイチャー」に論文掲載。
(その後、次々と論文を発表し、2年半の間に合計して「ネイチャー」に7本、「サイエンス」に9本の論文が掲載される)
2000年4月 29歳「サイエンス」に11K(-262℃) での超伝導達成。
2000年7月 29歳「サイエンス」誌に画期的な研究成果が掲載されて華やかに物理学会にデビュー。
「カリスマ研究者」として賞賛を受け、ノーベル賞候補とも言われた。
シェーンの発表を聞いた人達は、その素晴らしさにみな興奮したと伝えられている。
2000年11月 30歳
「ネイチャー」に52K(-221℃)での超伝導達成。有機物の超伝導の新記録達成。
方法が書いてあったが、「スパッタ装置を用いて薄い酸化アルミ膜を有機物の上につける」というシンプルなものであった。
追試が上手く行かないのは、「文章に書くことが出来ない様な高度なノウハウが実は隠されている」と思われた。
2000年12月 30歳ベル研の正社員となる。
2001年 30歳
「オットー・クランク・ウェーバーバンク物理学賞」受賞
「ブラウンシュバイク賞」受賞
綺麗過ぎるデータに疑問を持つ研究者が出始める。
しかし、シェーンは自分のサンプルを提供して、他の人に確かめてもらうのをやりたがらなかった。
ベル研ではシェーンの研究成果をお披露目するための講演会を開催したり、玄関付近のロビーにはシェーンの顔写真が飾られるなど「スター」扱いだった。
2001年9月 31歳
「サイエンス」に117K(-156℃) での超伝導達成。
日本での講演で、有機物の結晶の写真は出てくるが、肝心の酸化アルミを載せてトランジスタの構造を作ったものは見せなかった。
シェーンの手法に疑問が持たれる。しかし、他の人の研究に疑問を投げかけるのは、信頼に基づいた関係で成り立つ研究者同士の間での遠慮があり、責任も生じるので完全に間違いという確証がないと言い出しづらい。
2001年9月上司のバトログはスイス連邦工科大学の教授になり、チューリヒを拠点にする様になる。
ベル研を離れたバトログ自身がシェーンを追いかける立場になり、自ら追試を行おうとすることになる。「マジックマシン」を使用するために、研究室のスタッフをコンスタンツ大学に派遣。実は、実験条件を微細にコントロールすることは不可能なオンボロ機械だと分かる。研究室のスタッフが「マジックマシン」を使って何度も追試をしたが一度も成功しなかった。しかし、バトログはシェーンを信じていて「実験条件が良くないのではないか」と追試の失敗の理由を挙げ、追試を続けさせた。
※バトログはシェーンに酸化アルミ膜を有機物に載せるプロトコールを論文にして出すように指示し「プレ・プリント」が出される。この「プレ・プリント」のデータを丁寧に見ると、サンプル測定数が不可能なほど多かったことで、疑念をさらに深めた。
2001年暮れ
バトログの研究スタッフは、シェーンをヨーロッパに呼んで「マジックマシン」を使って実験して見せて欲しいと要望。
2001年末
「サイエンス」に「たった1つの分子をトランジスタとして働かせることができる」という、さらに斬新な論文を掲載。
同僚のモンローが、シェーンのデータには実際の統計的なバラツキがなく、綺麗過ぎると看破。ベル研の上層部に告発するが、第三者的な調査委員会を設けることはせずに、直接シェーンに真偽を尋ねていた。これは、シェーンに言い訳を考えさせる余裕を持たせてしまうという失態となった。
2001年12月
モンローは諦めて告発を撤回。
2002年 32歳
「アウトスタンディング・ヤング・インヴェスティゲーター賞」(賞金3000ドル)
2002年2月
バトログの研究スタッフの前で、シェーンが「マジックマシン」を使って実験をする。
シェーンが片目を瞑って実体顕微鏡を覗いている姿を見て、この人は実験の経験が少ないのではないかと直感した。また、有機物の表面を傷つけるので普通はピンセットは使わない作業でピンセットを使った。実験経験が少ない証拠である。また、シェーンがこれまで「クリーンルームで行う」としていた作業をせずに行うという矛盾があった。シェーンが作った酸化アルミ膜は酷いもので、超伝導は起こらなかった。サンプルに付けた電極のハンダも無様で経験が無いことを示していた。
この報告を受けても、バトログはまだシェーンを信じたがっていた。
その後「追試に成功した」と報告があり、バトログはその研究者と一流科学雑誌の編集者らと共に祝杯を挙げた。しかし、その追試成功は誤報であったと判明する。
シェーンがヨーロッパの学会で「マジックマシンが壊れた」と語る。
バトログは「ともかくシェーンを信じて、このまま実験を続けて欲しい。真偽は他の研究者たちが明らかにしてくれるはずだ」と言い続け、研究チームのリーダーによる自浄作用は働かなかった。
ベル研の別の科学者の科学賞授賞式に、ベル研がシェーンの特別講演を強引にセットする。その科学者が抗議したが聞き入れられず、シェーンは特別講演を行った。
2002年3月 31歳
シェーンはマックス・プランク固体物理学研究所の共同所長に内定。
2002年4月
物理学者リディア・ゾーンに「シェーンの2つの論文をよく見るように」という留守番電話。2つの論文に掲載されたグラフが、細かいノイズまで一致した。彼女は、ポール・マキューエンに連絡。探してみると、他にも同じグラフが3つの論文に使われているのを突き止める。
ベル研の上層部に告発する他に、他のベル研や外部の研究者、科学誌の編集部、バトログ、シェーン本人にも連絡をした。
2002年5月16日ベル研が、シェーンの捏造に関する調査委員会を設置。
シェーンは、同僚のミュラーに突然彼の実験サンプルを持ってきた。ミュラーがそれを顕微鏡で確かめると、干渉縞が見え、膜の厚さが論文で主張していたものよりも10倍以上の厚みがあると分かる。(超伝導は無理な厚さ)シェーンはこうした初歩的な現象すら知らなかったと判明。しかし、シェーンはそのサンプルは実験に成功したものだと自分で思い込んでいた可能性もある。
2002年5月21日
新聞各社など、報道機関が調査委員会が設置されたことを報道。
バトログ「自分はシェーンを信じている」
シェーンは「ネイチャー」「サイエンス」両誌に、間違ったグラフを混同して出してしまったと弁明。
2002年5月24日
「サイエンス」に、差し替えのグラフを提出。だが、別の論文にまで手が回らなかった。
サイエンス誌は訂正を認めて誌面に掲載。しかし、問題の2つのグラフは単に同じなのではなく、意図的にグラフの縮尺を変えたり縦軸の値を変えたりして「改変」が行われていた。
2002年9月25日
ベル研はシェーンを解雇
[調査委員会の調査結果]
・シェーンは調査に協力的な姿勢を見せていた。
・シェーンが差し出したデータは、オリジナルのデータであると確信できる様には整理されておらず、連続して記録された形跡もなかった。結局、生データではなかった。
・データを残した実験ノートも無かった。・シェーンは、使っているPCが古い機種で記憶容量が十分ではなかったので、生データは消去したと弁明。
・実験サンプルも、動作可能なものは1つも残っていなかった。シェーンは、測定の際に損傷を受けた、輸送中に壊れた、廃棄したなどの理由づけをした。
・シェーン「私はこれら全てのデータを確かに測定した。これは本当に起きたことなのだ」
・調査委員会は、後付けで言い訳できない様に質問を選んだ。
たとえば、「そうした批判がありますが…」とだけ言ってシェーンの答えを聞く。事前によく調べておき、シェーンの答えが辻褄が合うかどうか、追い込んでいく。
・「実験データは、論文の内容に合っているものを、ファイルから適当に選び出した」
・「その方が見栄えがする」「その方がいい物語になるから」
※シェーンの意図的な不正行為
1.同じデータをいくつものグラフに使い回したり操作した
2.理論モデルをもとに数学的に計算した数値を実際に測定したデータの様に見せかけた
3.科学的な説明をできないもの
メモ
※デニ・ジェローム教授
「追試が上手く行かないのは、自分達の知らない技術があるのだろうと思った」
「有名なベル研だったし、バトログが参加していたことが良い印象を与えた」
「バトログやベル研という名前が無かったら、『ネイチャー』や『サイエンス』は論文をアクセプトしなかったであろう」(権威のある名前の効果)
※追試をしている学生がメールで質問すると「秘密など何も無い」とだけ返事がきた。
少なくない学生を含む若手研究者が、大事な2〜3年間を棒に振った。
※当時ベル研にいた人達の証言
「夜中まで1人で仕事をしている事が多かった」
「彼は居室に篭もっていることが多かった」
「彼の部屋を覗くと、多くはPCに向かって何か書いているか、データを見ているか、論文を読んでいた」
「徹底的に議論するのがベル研の伝統であったが、所内の人が質問されても、シェーンは測定したらそうなったと言うだけで、議論はしなかった」
「サンプルは手元になく、全てドイツにあるとして、すぐに提供できないと言われた」
※「マジックマシン」コンスタンツ大学にある、ほぼシェーンが1人で使っていたスパッタ装置は、実際はオンボロ機械だった。
※確証バイアスの問題
性善説により「シェーンは若いがきわめて優秀な天才学者だ」と思い込まれた。
「マジックマシン」説により、他の人達の追試ができない理由付けがされた。
「再現性がない」ことが、逆にシェーンのカリスマ性を強めた。
※サンプルをすぐに捨ててしまったと説明
大事なサンプルを捨てるのは、研究者として考えられない。
実験に愛着があれば、簡単に捨てられないもの。
※広報宣伝活動と営業努力は研究室の存続と発展には不可欠で、研究リーダーにはそうした能力も求められる。また、バトログは自分も研究リーダーとしてシェーンと共にノーベル賞を受賞できるかもしれないという期待があったのではと指摘されている。
※コンスタンツ大学の調査で、シェーンの大学時代の論文にも、誤りや不正行為が見つかった。
1.グラフとその測定データの不一致
2.実験記録の不備
3.グラフの曲線が、実験結果をそのまま厳密には反映しておらず、結果がより明らかになる様に書き換えられていた